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UCLAと日本の脳研究 −川村浩さんからの寄稿

UCLAと日本の脳研究
川村 浩
UCLAは、はじめCalifornia大学(Berkeley)の南分校ぐらいの位置づけであったらしい。それが飛躍的発展を遂げるのは、新設された医学部の初代解剖学教室主任教授として、1950年にHorace W. Magoun(1907~1991) 博士が着任したときに始まるといってよいだろう。MagounはシカゴのNorthwestern 大学のS.W.Ranson解剖学教室の出身でRanson(1880~1942)のもとからは戦後の米国の、脳生理学を担った人が多く現れている。Ranson教室の特徴は脳の構造の研究だけでなく、それぞれの構造がどのような機能(はたらき)を持つかという生理学の視点から刺激したり、破壊したりしてその結果を研究したことである。そのため、戦後第一期の脳研究には、Ranson門下の人たちが重要な地位を占めた。脳研究はその後、微小電極による神経細胞の働きの研究に重点が移り、今は画像による機能研究や遺伝子などの分子生物学的研究に重点が移っているが、脳の構造と機能の関係は常に興味の中心からはずれることはない。

Magounは1948年にイタリーのピサ大学から招いたG.Moruzzi教授と共同で、かねてから研究していた、脳幹の網様体という構造がいろいろな感覚神経の情報を集めて、脳の覚醒レベルを調節しているという「網様体賦活系学説」を発表して世界的に有名であった。その他の研究を含めて、1957年ノーベル医学生理学賞の最有力候補となったが、土壇場で地元スウェーデンのRagnar Granitに敗れたということである。
このような?? Magounの下には世界中から脳研究を志す研究者が集まった。Magounの着任当時、Westwoodにはまだ彼らを収容する場所がなく、Long Beach V.A.Hospitalの脳外科部長J.D.French(1911~1988)が広い場所を空けてくれて、研究が可能となった。したがってMagounの着任後10年間の研究はLong Beach で行われた。Frenchは1961年にWestwoodに完成するBrain Research Instituteの初代所長となった。そして当時のUCLA-BRIは脳研究のメッカとなったのである。

ひるがえって日本の脳研究は、戦前きわめて少数の解剖学者が脳の繊維連絡を研究していたが、生理学的な研究はほとんど行われていなかった。わずかに慶応の林髞(たかし)がソ連のパヴロフのところに留学して条件反射学を紹介し、また1944年に大脳生理学という本を著したが、条件反射そのものの動物実験は困窮した戦中戦後、林にてよって行われることはなかった。なお林髞は慶大生理学教授の他に木々高太郎の名で探偵小説家としても知られた。

同じ頃、新潟大学解剖学教授の小池上春芳はウサギの脳深部に電極を埋め込み、大脳辺縁系(古い皮質の系統)の刺激実験を自力で行い、米国の教科書にも取り上げられて、UCLAでも講演を行っている。しかし当時の日本の生理学界では解剖学教室の仕事は、たとえ生理学的な実験であっても、それは生理学ではないという偏狭な思想のためにほとんど無視された。

さて、1950年の夏休み、東大医学部の講堂前に日米医学協議会の看板が立てられた。当時学生であった筆者は先輩に頼んで、その生理学の部を傍聴させてもらった。講堂には一杯に全国から医学部生理学の教授たちが集められていた。最初、協議会というからには何か相談でもするのかと思っていたが、実は米国の大学教授による日本の大学教授らに対する補修講義であった。学生の実習のときに教官が何度やっても、教科書に書いてあるとおりにならなかった実験を、アメリカの教授が教壇の上で見事に成功させると、居並ぶ日本の教授たちから一斉にホウという感嘆の声が上がった。

日米医学のレベルの差をはっきりと示した瞬間だった。その後、日本の学者が米国に新しい研究を学ぶためにボツボツ留学が始まった。UCLA脳研究所は、この時にも先駆的な役割を果たした。筆者の記憶するだけでも(失念している方もあると思うがお許し願いたい)、島本多喜雄(当時東大、帰国後東京医科歯科大学内科教授)、時実利彦(東大脳研生理教授)、藤森聞一(北大生理教授)、川上正澄(横浜市大生理教授)、萩原生長(東京医歯大生理教授、BRI Research Zoologistとなり、のちUCLA医学部生理学教授となった)。吉井直三郎(阪大生理教授)、河村洋二郎(阪大歯学部生理教授)、大熊輝雄(国立神経、精神センター総長)、山口成良(金沢大学精神科教授)、伴忠康(阪大解剖教授)、秩父志行(近畿大生理教授)、横山昭(名大農学部畜産教授)、新井康允(順天堂大解剖教授)、加濃正明(北里大生理教授)、など、多士済々のメンバーが留学している(カッコ内の肩書きは帰国後のものである)。これらの方々の肩書きを見て、生理学の教授が多いのに奇異の感を持たれるかも知れないが、当時のUCLA医学部では、脳生理学研究は解剖学教室がおこない、生理学教室は脳以外のことを研究していたためである。当時の解剖学教室には数十人も正教授が居り、驚いたものである。臨床の方は当時、それほどには教授陣も整備されていなかったように思う。Magounは日本の脳科学の発展に貢献した功績により、1971年、日本政府より勲二等瑞宝章を授けられている。
萩原生長先生(1922~1989)は神経興奮へのカルシウムの役割の研究で世界的な学者となり、多くの若い日本人研究者をBRIに招いて、日本の神経科学の興隆に寄与された。

UCLA医学部に日本から初期に留学された時実利彦先生は謙虚な方で、脳研究における日本の著しい立ち遅れを率直に認められた。1961年に帰国されて日本初の脳生理学研究専門の教授になられると、直ちに猛烈なエネルギーで脳生理学の研究室を立ち上げられ、また日本の各研究室で、脳の生理学的研究が行われるよう、当時の日本では余りに高価で手の出なかった、研究に必須の脳定位固定装置を、国内で製作させ、容易に入手できるようにされた。また研究が弟子たちにより軌道に乗ると、これまた猛烈な勢いで、マスコミに脳研究の必要性を説いてまわられ、そういう空気が日本全体に広がると、文部省に働きかけ、多くの国立大学に脳の研究室ができるよう裏方に徹して尽力された。その結果、主要大学に脳研究施設が作られ、新潟大学の脳研究施設は脳研究所に格上げされた。このことを先生は一切自慢されなかったので、弟子でも知るものは極めて少ない。しかし1973年に先生が63歳で亡くなられて以後、施設の新設は一切停止したことが先生の影の力を改めて知らせているといえるだろう。

文部省は東大教授が行ったからといって動くような所ではない。しかし世論の力には動く。その世論を作られたのは時実利彦先生の努力によるものであることを、当時を知るものは認めないわけには行かないだろう。先生の著書は今でも岩波新書の「脳の話」、「人間であること」など、書店で見ることが出来る。

私がUCLAで研究したのは、1963〜1965年の二ヶ年間である。二代目のAnatomy Dept.のChairmanだったCharles, H.Sawyer(1915~2006)先生のお世話になった。私の初めて米国を訪れた年は、東京オリンピックの前年で、新幹線も高速道路も工事中であった。そして外国へ出ることは私費では不可能で、訪問先が生活費について責任をもつことが要求されていた。そして私は戦闘には遭遇しなかったとはいえ、終戦直前に、赤紙召集で東満州と朝鮮の国境近くまで兵隊として動員され、到着したその日に終戦の詔勅があって、辛くも大連まで逃げ帰ることが出来た。そういうかつての軍国主義時代の旧制旅順高校生徒としては、米英撃滅を鼓吹された旧敵国の米国へ行くことは正直かなり複雑な気分であった。それだけにRose Paradeのときに、Pasadena?の、日本総領事公邸に日の丸を見かけたとき、とNew Yorkへ行って、当時五番街にできたソニーのニューヨーク支店に翻る大きな日の丸の旗には、軍国主義は思い出すのもいやであったが、しかしジーンとくるものがあった。現在の方々にはお分かり難いと思うが、米軍の日本占領の記憶も消えない当時の日本の国際的地位はまだまだ低かったのである。

ただUCLAや、その付近の住民には日本人を差別するような態度は全くみられなかった。もっとも、その直前に大相撲のロスアンゼルス場所というのが興行されたことが新聞にのっていたが、臀部まるだしの褌すがたは風紀上問題とかで薄い股引をはかせられたというから、その後の米国の女性の露出度がPlayboyなどの雑誌では、それ所ではなくなったことを思い出すと、何ともおかしな話である。その頃の日本製品は大体スーパーで安売りされているものが大勢であった。高級品として、ショーウィンドウの真ん中に飾られているのはニコンのカメラとソニーの製品ぐらいであった。やはりその頃、研究室で日本の料理の話が出て、寿司の話をしたところ、生の魚を食うのかと、顔をしかめられたが、十年後のニューヨークでは繁華街のすし屋の席を占めている大勢は日本人ではなく、かの地のエリートビジネスマンたちとなったのは、経済力の上昇が、国民生活の評価にまで及ぶものとして感慨を覚えた。また私の行ったばかりの頃、UCLAのBiomedical Libraryで戦時中、日本軍から捕獲した軍医の携行用医療器具箱とその内容が展示されていたが、あまりにもお粗末で赤面せざるをえなかった。点滴などは戦後でも10年は行われていなかった。

当時、日系人はダウンタウンのほかにWest LosAngelsでは、Sawtel Blvd.の辺りのメキシコ人の多いところに隣接して住んでいる人たちがいたが、そこにある日本料理店では、刺身定食、てんぷら定食、照り焼き定食ぐらいが供されていて、刺身定食は、サイコロのように角形に切ったまぐろにわさびでなく、辛子が付いて出てきた。ダウンタウンのLittle Tokyoも今と違って何となく寂れた感じで、そこの日本料理店は戦前のカフェーのように、桜の造花がたてられていた。またショーウィンドーの張り紙の言葉、仮名遣いが戦前のもので、昔に返った感じであった。この時代は、アメリカの古き良き時代で、まだどこを歩いても、とくに不安はなかった。Wilshire Blvd, LaBreaには東宝LaBreaという映画館があり、日本では見る暇の無かった黒澤明や小津の映画をシリーズで見ることが出来た。日本映画をみせる映画館はその他、4,5軒あったと思うが、ダウンタウンの端にある映画館では、休憩中、軍艦マーチを鳴らし、入場すると日の丸の鉢巻をくれた。敗戦二十年頃にはまだそんな所も有ったのだ。

ダウンタウンにつながるWilshire Blvd.には当時は西武デパートがあり、物の値段が高いと評されていて、のちにつぶれたが、その屋上にあった日本料理店は当時としては高級な感じであった。
尚、私が行くころまでは、教授でも外国行きは留学と考えられた。しかしUCLA―BRIでいち早く教授の地位につかれた萩原先生は、日本で助教授位の人が単なるpostdoctoral fellowで来るのは、いつまでも日本の学問的地位も低いままと考えられ、自分のところに呼ぶpostdocを、faculty appointmentにされた。BRIでは、他でresearch assistant professorと呼ばれる地位は、assistant research ~istとなる。Full professor に当たるのはresearch ~istで、〜には所属のDepartmentの学問分野の名前が入る。戦後、数学や理論物理では、早くから日本人の教授が米国の主要大学に招かれていたが、医学生物学の分野では、その点には立ち遅れがあった。それは数学、理論物理学では発表の主体は数式で、これは万国共通であるから英語は下手でも意思は通ずるわけである。それに対して、医学、生物学などでは、英語で微妙な表現をしなければならず、また戦中戦後の研究設備の圧倒的な差異などで立ち遅れたが生じたわけである。

日本はその頃、国務長官ダレスの影響などで、冷戦の最前線と位置づけられ、かなり反ソ的な雰囲気が強かった。McCarthy旋風の時代には、徳川夢声という漫談家が前進座後援会員だったというだけの理由で米国行きのビザが出なかったこともある。しかしUCLA−BRIではむしろ積極的にソ連や東欧圏の中堅級や若い学者をpostdocとして招いており、これはMagounの国際的、学際的な視野の広さがあったものと思われる。Magounは、その後、Moscow Colloquium of Higher Nervous Activityに参加し、そのときの東西学者の会合が、International Brain Research Organization( IBRO、国際脳研究機構)創設の端緒となった。以後の歴史の展開をみると、Magounのような、米国人インテリの度量の広さ(時期によって変動はあるが)には感心せざるを得ない。

近年UCLAへ行く人は文科系、とくにビジネス関係の人が多いようであるが、かつてのUCLAには敗戦後の日本に対してこのような基礎医学の分野での貢献があったということを皆様に知っていただきたいと考え、私の留学時代に思い出すことを駆け足で記した次第である。

 

 

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