UCLA創設者による座談会
左から:若松兼三、堤猶二、菅森臣夫、荒井敬彦、太田卓男、各氏と司会の赤羽輝臣氏
2002(平成14)年1月29日(火)18時〜19時半
東京浜松町インターコンチネンタルホテル東京ベイ
出席者: 荒井敬彦 太田卓男 菅森臣夫 堤 猶二 若松 兼三(順不同)
司会: 赤羽輝臣(前日本同窓会事務局長)
写真撮影:久野和作 翻訳:豊田沖人
コーディネート:松代泰彦(以上ホームページ委員会)
赤羽 本日はお忙しいところお集まりいただいてありがとうございました。
この座談会の目的はわれわれのUCLA日本同窓会がどのような経緯で設立し、今日に至っているのか。又誰が作ったのかなどを明らかにし、同窓会員に知らせることによって同窓会に親しみを持ってもらおうと言うものであります。このようなことから設立になんらかの形で関係された先輩達のうち、堤初代会長、荒井、太田、菅森、若松、(前川氏は当日欠席)、の諸先輩に気楽に、自由に語っていただこうと思います。
それでは口火を切るということで最初に堤さんにお願いいたします。
堤 ヤング学長との接点で、日本に正式な同窓会をつくってほしいということが向こうから来たんです。
太田 ヤング学長が来たときに、SCの学長も来ていて、彼らのほうは日本のそういう集まりがあって、それを見ていて、うちもほしい、ついてはミスター堤、ちょっと集まってくれという話でしたね。
堤 そうそう。
太田 ちょうどあのとき、あの当時のプリンスホテルに泊まっていたんだよね。
若松 時代的にいうと、それは日本に帰ってきたあとの話で、同窓会の一番最初の芽は、その前のUCLAのマーフィー学長のころにわれわれがいたんだよね。そして、われわれが卒業した次の年ぐらいにヤング学長になったんですが、その当時日本人同窓会の芽をつくっていた。
僕の記憶では、あのころは入学前に身体検査があった。真っ裸にされて、並ばされて、飛んだり跳ねたり、咳をしろとか言われた。その時、猶二と僕の間に白人と黒人がいて、体力の差がものすごくわかったんだけど。
堤 顔のそばで何か動いて。
若松 そうそう。顔のそばで何か動くなと思ったら。陳列されていたんですね。すごくびっくりした。それで、出てきたときに臣夫が、「日本人がみんな待っている」と言って、メンズ・ジムの前のところに下りていったら、中村さんとか袖井さんがいて、「おまえたち、勉強しないと、すぐ帰されるぞ」とものすごく脅かされたんです。それで、オリエンテーションをやってくれた。あのときにもうできていたんでしょう。みんなを迎えようという。
そのあとに皇太子殿下と美智子妃殿下が新婚旅行でいらしたときに、われわれがみんなでアルバムをあげたでしょう。あのころはグループでお金を集めたり、何かしようというのはできていたわけです。そのあとに、じゃあというので、ダンスパーティーばかりだったけど、学校のまわりとか、サンタモニカとか、そういうところに集まってはやっていたじゃない。あれが最初だよね。
荒井 同窓会というのではなくて、日本人留学生会のたまり場みたい感じで集まっていたんです。
若松 あのときタカちゃんがアクティブで、学校に申し込んだら、ジャパニーズ・ステューデント・アソシェーションというように、日本人しか入れないものはだめだと断られたということがあった。
赤羽 タカちゃんというのはどなたですか。
若松 斎藤君といって、いまサンディエゴに住んでいます。
菅森 いまアメリカのネイビーのコンピューター関係で、自衛隊とも非常に密接で、ときどき来て教えているみたいですよ。
若松 そのころダンスをしたり、マイク・鈴木たちなんか日本人が集まって何かしなければいけないといったときに、吉永小百合と橋幸夫の歌、「いつで夢を」を教えてくれて、みんなで歌ったじゃない。
荒井 その当時の日本人の会みたいなのがあって、その仲間が最初の発起人だった。
太田 それを言うなら、兼ちゃんの前に袖井さんがいて、袖井林二郎さんが中心人物だったんじゃない? それで臣夫がいた。そのへんは臣夫が一番よく知っている。
赤羽 当時、日本人は何人ぐらいいたんですか。
菅森 私の記憶では、交換教授が多くて、留学生というのは遊学生といって、ほとんど遊びに来ている人が多かったんです。
堤 年代を言って。
菅森 私が行ったのは1958年だから、そのころだと思います。
堤 50年代後半。
菅森 個人的な経験ですけれども、ロサンゼルスに着いて、あの大きなキャンパスでウロウロしていたら、ハラさんという人かな。キャダムの日本の社長で、去年リタイアされた人が、「おまえ、どこから来たんやねん」と大阪弁でね。大阪の人がかなり多かったですよ。留学生のパーティーがあるから来ないかというので、初めて留学生の会、それはインターナショナルだから、日本人と言わずいろいろな国の人がいたし、特にアラブ系の王子様みたいな人がいっぱい来ていましたよ。そういうところで日本人と1人、2人と知り合っているうちに、オリエンタル・ライブラリーに集まるようになったんです。
オリエンタル・ライブラリーには日本のシガさんという女の人がいた。シガさんというのは当時若かったかな。(笑)オリエンタル・ライブラリーですから、日本の本がかなりあるんですよ。新聞も羅府新報というのがあって、そういうものを見にみんながそこへ寄るわけです。そのうちにだんだん集まるようになったんです。
あと私の個人的な経験から言うと、UCLAでコードーミトリーと言って男女共学の寮が全米で初めてできたんです。そのときに初めて僕は入ったんです。そのうちに中村さんとか、飯野海運の役員の息子さんとか大阪のボンボンが入ってきて、日本のどこから来たんだという話をしていて、飯野海運の社長の息子かな。おれが「飯野海運というのは知りません」と言ったら、「おまえ、飯野海運知らないのか」とえらくばかにされたのを覚えている。
ラーメンをだれかが作ったんですよ。それを食べに来いというので、みんなでその部屋に押しかけたりして、だんだん輪が広がったのが日本人の集まりの……。
荒井 臣夫さんは58年?
菅森 そうです。
荒井 僕が60年です。
赤羽 私が知っている限りでは、亡くなられた岡田さんでしたか。あの方はもっと古いんですか。
太田 全然古い。
荒井 あとで話が出るかもしれないけれども、思い出す大先輩というのは、ジャパンタイムスの福島さんとか、日本水産の西川さんとか、ブリティッシュエアウェイズの岡田さんとか、とてもいい先輩がいたんです。その人たちははるか昔です。
太田 われわれより20年ぐらい前じゃないですか。
荒井 そう、もう亡くなられた。西川さんだけはシアトルへ行きましたけれども、あとは亡くなられました。
菅森 それから、英語のクラスで、33Aと33Bを取るのを義務づけられた。そのときに友達になった人も多いんですよ。僕は33Bのときに、大阪の心理学の河合さんたちと一緒でね。
荒井 あの人の話も面白かったね、関西弁で。
菅森 みんな同じ英語のあれで、そういう偉い先生だということを知らなかったけれども。
荒井 いまでこそそうだけど、あの当時はまだ天理大の講師だった。
菅森 ラッパは吹くけどホラは吹きませんとか、そんな面白いことを言っていた。
堤 逆じゃないの。
菅森 逆だったかな。
若松 いまは日本ホラ吹き会会長か何かやっているらしいよ。
菅森 当時スピードで読むのをやったでしょう。はい、始めなさいと言って、後ろに1から10の答えを○×で出すのがあるんですよ。先生が、「はい、始めなさい」と言ったら、ものの3秒ぐらいで「はい」と言ったのが河合さんで、それが全部合っていてね。僕はそれが非常に印象的で覚えているんです。「僕は心理学で、こんなものは答えなんて読まなくてもわかります」と言ったんで、先生がそれでは英語の勉強にならないなんて……。そんなことでよく覚えているんですよ。だいたいそれがみんなの集まりのもとですね。
赤羽 そのころはグラデュエートとアンダーグラデュエートと学生は一緒になっていたんですかね。
菅森 そうですね。
太田 僕はこのなかで一番新しいほうです。この5人のなかでは最後に行った。僕は63年だから。
赤羽 先ほど荒井さんが言われた、もっと先輩たち、先ほどの飯野海運とか、その人たちはこういう会とは……。
荒井 オリエンタル・ライブラリーの時代ではなくて、はるか昔だから。
赤羽 この会を集まってやろうと言いだしてからは、やはり岡田さん、西川さんぐらいが一番の……。
若松 西川さんは高輪プリンスで集まっていたところへ他のパーティできていて懐かしくて急に部屋に入ってこられた…。
太田 日本同窓会を堤さんがヘッドとしてみんなでつくってすぐのときは、西川さんとかジャパンタイムスの福島さんとか、僕らより20も30も上の人がお見えになったから。その人たちはとてもいい先輩です。
荒井 後輩思いのいい先輩だね。非常にあったかみのある感じで。
太田 それはよくやってくれましたよ。必ず出てきてくれて、いろいろな話をしてくれました。
荒井 それで臣夫さんの話は終わったんだけど、きょうは貴重なものを持ってきたんです。ラミネートしてあるからきれいなんだけれども、これは26年前のものなんです。さっきの設立発足の日とちょっと違うんだけど、これを作った日なのかもしれないのですが、これはNovember 12,76。さっきは75年11月14日発足と言っていましたね。それは記録に残っているんでしょう。
若松 それはUCLAの会則の日付けになっている。
荒井 これは発行した日の日付が入っているんだと思うけれども、ここにはNovember 12,76と入っている。ユウジ・ツツミと書いてあります。
堤 汚いサインだ。最近、もっとうまくなりましたよ。(笑)
荒井 うまくなった? けっこうかっこいいと思っているのに。
赤羽 われわれは同窓会のこのカードをいま持っていないんですよ。
荒井 なかなか皆さん持っていないと思いますよ、26年も。僕はしまっておいたんです。
若松 これはお宝物ですよ。
菅森 そのころそういうラミネートというのを初めて見た。
荒井 ラミネートはそのころ初めて出て、それでこれを作って、メンバーに出したんです。
赤羽 当時、何枚ぐらい出したんですか。
荒井 記憶ははっきりしていないけれども、70〜80枚あったような気がします。
赤羽 それが第1回目の同窓会のメンバーということですね。
荒井 そうです。設立のメンバーはだいたいこのメンバーですね。
赤羽 では、今度は実際に日本同窓会をつくる時期、会則をつくったり、具体的に初代会長を決めようとか、そのへんまで時代を進めていただけますか。
堤 あのころはとにかくUCLAという名前はあまり知られていなかったですね。いい先輩がたまたまいたから、そのコネは非常にありがたかったけれども、SCのほうが有名だった。
荒井 それもそうだし、そのころはやはりアイビーリーグのハーバード、コロンビア、エール、プリンストンというのが昔の人のあれだったんです。そして、その後西海岸のスタンフォードとかSC、そしてUCLA。UCLAは比較的遅かったですね。
堤 カリフォルニア大学でもバークレーのほうが古くて知られていた。
若松 日本ではちょうど二階堂さんや三木さんが政治家で出てきているでしょう。
堤 そういう意味では、ヤング学長もそういう経験をされて、同窓会をつくってほしいというリクエストもあったし、僕らも戻ってきてもつながりが欲しかった。そういうことがピタッと合ったということもあるんじゃないですか。
太田 あのころ、そういうことがなくてもこのメンバーでよく会っていたね。
堤 それが一番のベースだね。
太田 あのころは一緒に酒を飲んだり飯を食ったりしていたんだよ。
菅森 勉強会をした。
太田 そう、勉強会をした。ヤング学長からそんな話があったんだけど、どうしようかなんて言うから、つくればいいじゃないと言って、それから始まったんだよ。
若松 そのころは帰ってきたばかりだから、卓ちゃんは家に帰って副社長ぐらい? 荒井さんは……。
荒井 帰ってきてリコーだね。
若松 リコーに入っていた? 臣夫は帰ったきたばかりのころはまだ社長になっていなかったよね。それから、猶二も池袋のデパートとか。
荒井 そのときはもう西武に入っていた。
若松 そうそう。帰ってきたときは百貨店で紳士服をやっていたし。
太田 だけど、日本同窓会が始ったころには確かプリンスホテルの社長をやっていた。
堤 会長職は、場所があったから俺に来た。
若松 同窓会をつくっても、普通の同窓会のような活動はできなかったわけですよ。いまの同窓会みたいに、学校に対してファンドレイズをするとかいろいろなことをするとか、何もできない。ただ、われわれがつくるだけが精一杯。
太田 正直言って、ファンドレイズするなんて気もなかった。
若松 まだこれからだったから。袖井さんも、われわれはファンドレイジングなんてできないよといつも言っていたな。
堤 学校へ行った人をみんな集めようという意識は全然なかった。
太田 ただみんなで集まろうよということだった。
荒井 1975年とか76年ごろは、われわれはこの仲間で会っていた。それから、スクールオブ何とかとか、それぞれ学部の仲間が独立してあった。それを横断的に少しあるくらいの組織にしようかということになってきたんです。
赤羽 学部ごとに集まっていたのは……。
荒井 それもまたそういう仲間。
太田 それはそれぞれのままだから。
荒井 プライベートな遊び仲間みたいな格好でいたのを、少し大同していこうか。学長からもこういう呼びかけがあるしということで、われわれは堤さんを担いで、シャッポになってもらって動いたわけです。そして、だんだん輪が広がっていって、これを発行するころは確か70〜80枚発行した気がします。
赤羽 第1回目の同窓会はどちらでやられたんですか。
荒井 プリンスホテルでやりました。赤坂プリンスだったかな、東京だったかな。
赤羽 何名ぐらい来たんですか。
太田 あれはけっこう来ましたね。50〜60人いましたね。
若松 いつもいっぱいだったね。
荒井 それから始まって、セミナーなどもやろうということで勉強会もやったんです。いまも時々やりますけれども、最初は仲間が話したかな。われわれ同窓の仲間、あるいはその人の友達とかね。
赤羽 やはり講演会みたいな感じですか。
荒井 そうそう。勉強会みたいなものをやっていました。
堤 けっこうアクティブだったね。
荒井 アクティブだったね。
堤 ファンクション・コミッティーとかいろいろつくって、そのころからやっていました。
赤羽 そのころ益子さんが事務局ですか。
荒井 益子さんはそのあとだよね。
若松 ちょっと東京プリンスに事務局を置かせてもらっていたから。そのあと東京プリンスではなくてというときに益子さんが出てきた。
荒井 歴代会長が何年から何年まで就任されたという記録はあるでしょう。林さんは2代目だったかな。
赤羽 2代目と聞いています。
荒井 わりに短かったね。
太田 あれは猶二さんが頼んだんだろう。臣夫さんと2人で2代目会長を頼んだんですね。
荒井 3代目が袖井さんで、4代目が中部鉄次郎、5代目は佐治さん、6代目は林さんに戻った。
太田 日本同窓会に関してはそうだよね。袖井さんはずっと一緒だったね。
菅森 林会長はあのころ奥さんとロサンゼルスへ留学して、夫婦で高級マンションに住んでいた。
堤 ダブっているときがね。そのころから知っているんだね。
太田 袖井さんの奥さんは行ったのが僕と同期なんです。加藤孝子さんといったかな。
菅森 そのあと中部さんとか会長職の人たちとの接触の期間がありましたね。佐治さんのときは僕らは日本に帰ってきていない。
太田 彼は五つか六つ下でしょう。
荒井 昭和19年生まれかな。
堤 あそこでうんと若返ったかもしれない。
若松 UCLAが一番変わったのは、林さんが2回目になったときに、事務局にラトリッジさん、古川さんがいて。
荒井 これは特筆すべきだね。
菅森 その事務所がUSCかな。いや、UC全体のができたので、そこでわれわれの面倒もみましょうということになって、益子さんのほうからこちらへ移ってからがものすごく違って、広がったね。
荒井 そうそう。だから、ヒストリーを見れば、益子さんにまず……、あのときはUCLAだけの事務局だったけど、銀座の彼のオフィスに置いてもらった。
若松 そのときに一番お世話になったのはベアワルド先生でしょう。
荒井 そう、今度来られるけれども、ベアワルド先生。
菅森 ファンドレイジングのきっかけみたいなものは、益子さんの時代に船舶振興会から当時のお金で1億円の寄付をもらったんです。
堤 そうそう。笹川さんから。
菅森 笹川財団から。
赤羽 同窓会にですか。すごいな。
菅森 いや、同窓会じゃない、UCLAに。それで、UCLA側も、日本の同窓会をすればそうとう金が集まるぞと思われたんじゃないかと思うんですよ。それから、いまみたいな大型のファンドレイジングの……。
荒井 あれは笹川さんのところが出したの?
菅森 そうです。そのころはベアワルド先生とかみんなで……。そのころは黒宮さんが自民党にいらしたので、かなり動いたというふうに益子さんから聞いています。
荒井 黒宮さんっていまの女性の方?
堤 彼女は政治家の秘書みたいなことをやっていましたね。
菅森 UCLAからいろいろな人が来たときに、日本の要人に会うスケジュールをつくったりするのはみんな黒宮さんがやったんじゃないかなと思います。
赤羽 私は実は林会長のときからで、その前の佐治会長のときに何回か同窓会に顔を出していたのですが、実はそのころはどちらかというと建築関係はほとんどいなくて、1人でこそこそ動いていたというのが本音なんです。林会長のときに益子さんから事務局長をやれと言われて入ったというのが本音ですから、佐治会長以前の袖井さん、中部さん、林さんの第1期のころなんてほとんどわからないのですが、会長それぞれの特色といいますか、何か違いはありますか。
荒井 私個人の感じかもしれないんですけれども、会長をだれにするかということについて、僕は裏でだいぶかかわっているんです。猶二さんも当然だけれども、袖井さんも大学時代非常に親しくしていましたから。さっきオリエンテーションという話があったように、日本から来た人はいろいろわからないじゃないですか。キャンパスのこととか、学生ビザでは仕事はできないとか、そういうことを袖井さんと一緒に私もいろいろアドバイスしてあげたんです。だから、袖井さんとはいろいろコミュニケーションがあって、彼を推すときには僕が動いたんです。
赤羽 それぞれの会長を簡単に紹介していただけませんか。
荒井 袖井さんはご存じのように、一番UCLAに長くいたんじゃないでしょうか。
太田 7年か。
荒井 7年ぐらいね。それで、早稲田大学の政経を出たわけですが、いま法政大学の政治学の名誉教授ですが、一言で言うと仙台出身の朴とつとした方ですね。
赤羽 学者タイプの。
荒井 学者タイプというにはちょっと首をひねるんだけど。
太田 強いて言うならば物書きですよ。
荒井 話せば論客というか。
太田 論客だよね。
荒井 そういうなかなか人情味のある、厚みのある人間だと私は見ています。
太田 そうですよ。そして、そのころ『マッカーサーの二千日』であれをもらったんですよ。
荒井 面倒見が非常に良かったから、こういう組織の長にはいいんじゃないか。そのころ確かに『マッカーサーの二千日』で毎日出版文化賞をもらうとか、たいへん著述のほうで高名になってきて、やがて大学教授に迎えられた。大宅壮一賞ももらったね。われわれの誇れる仲間という方です。会長をやっていたのはそのころだったと思います。
太田 そうです、そうです。奥さんのほうが先にお茶の水女子大の教授になって、あの人は助教授で、ちょっと焦っていた時期があった。(笑)
荒井 奥さんも最初は東京都の職員で、老人問題研究所かな。そういうところにいたんだけど。
若松 いまは内閣の老人生活何とかの座長をやっている。
菅森 袖井さんはUCLAで結婚したんですか。
太田 そうだよ。おれもあの人の結婚式に出たもの。
荒井 彼も苦学力行のほうで、働きながら、ガーデナーをやったり、それはあまり言ってはいけないかもしれないけれども、そういう意味では私と共通するところがあって、苦学力行のほうでしたね。そういう意味で非常に人徳があった。臣夫さんもよく知っている人でね。
菅森 荒井さんもスクールボーイをやっていらしてね。
太田 あのころスクールボーイってあった? 赤羽さんのころ。
菅森 あの当時、スクールボーイというのがあって、日本の留学生が来て、住み込んでお手伝いさんですね。その代わり学校に行かせてもらう。
荒井 食事と部屋がただですね。
太田 スクールボーイとスクールガールとあるんだよ。
赤羽 仕事はどういうものですか。
荒井 私の場合は猫の飼育だった。(笑)
菅森 そう、その婦人は猫を50匹ぐらい飼っていらして、それが夜になると屋根の上に乗るんですよ。僕が荒井さんのところに夜行くと、ピカピカ星みたいに猫が。荒井さんの仕事は缶詰をとにかく50個開けて、ずっと長い板の上にどんどん乗せていくんですよ。
荒井 牛乳と缶詰をやるんだけど、魚が食べたいものだから、猫にやる前に自分でパクパク。(笑)だって、カツオの缶詰でツナとかそういうものだから。
太田 いまでこそ当たり前だけど、あの当時、日本にはキャットフードとかペットフードなんてなかったんだから。
荒井 その当時テレビで、RCAビクターのカラーで、キャットフードやドッグフードのコマーシャルをやっていたというのが非常にショッキングだったんです。1960年にですよ、人間の食べるものではなくてキャットフード、ドッグフードのコマーシャルをやっていた。いま日本でようやくペットフードなどがテレビコマーシャルになってきたから、そういう点では40年近く違うということだね。
若松 荒井さんのところに何回か行かせてもらったけれども、部屋なんかすごい立派ななんだよね。シャワー付き、ベッドも大きくて、ご主人がいないと、その家を全部荒井さんが使えるわけ、プールから何から。
荒井 信頼されていたから鍵を全部ね。
若松 ロシアの末裔の貴族だから、すごく立派なところでね。
荒井 いまのクロアチアのあたりですね。コーカサスの王位継承権を持った王子様だった。プリンス・マドバンニュ、1914年に亡命してきて、最初はハリウッドの女優と結婚したらしいんです。ディボースして、僕が行ったときには?シンクレアオイルのオーナーの娘さんでミセス・シンクレアという人が奥さんだったんです。その2人の家にスクールボーイということで住み込んで、非常に面白い経験をしました。
赤羽 その当時はスクールボーイ、スクールガールというのは多かったんですか。
荒井 多いです。ほとんどそう。だから、金持ちのボンボンとかお嬢さんでない限りはだいたいはね。360円の時代ですからね。その当時、外為法で日本からは500ドルしか持ち出せなかったんです。360円ということは18万円です。その当時の大学卒の月給が7000円から8000円です。ボーナスはいまほど出ませんから、年間、新卒の大卒よりもかかるんです。
堤 それにドルがなかったですね。
太田 だから、400円で。
荒井 闇ドルでね。だから、仕送りをしてもらえるというのは、そうとう裕福な家でなければできなかったです。私も仕送りは1回か2回で終わって、あとは自分で働いてやるという点で、正式な就職はできませんから、許されるのはスクールボーイとかスクールガールという人が多かったです。
太田 あとガーデナーのお手伝いとかね。
菅森 庭を掃除するガーデナーというのも留学生の一つの大きな収入源だったね。
荒井 そうですね。あの当時、ガーデナーは1日30ドルでしたよ。
菅森 お金持ちの庭を掃除したり、木を切ったりするんだけど、みんなそんなことはやったことがないんだけど、けっこう器用にやっていたよね。
太田 おれも1日やったことがあるけれども、25ドルしかもらえなかった。だって、掃くだけだからなんてことはないんだよ。
荒井 ちなみにその当時、たまたま僕の両親が銀婚式だったんです。それで初めて親に金を送るということをやってみたんです。30ドル、1万円ですよね。そうしたら、2泊3日温泉旅館に行けたんです。ものすごく親は喜びました。1日働いただけで30ドル、1万円ですから。大学卒の月給が……。
太田 それは偉いな。よくやったね。
荒井 それは1回しかないんだけど。(笑)
太田 でも偉い。1回でもやったというのは偉いよ。
菅森 あのころのUCLAのチューイションはいくらだった?
若松 140ドルぐらいだったかな。
菅森 確か1セメスター300ドル。
荒井 いや、もう少し高かったよ。
若松 最初の1年間は外国人は高かった。そして、2年目から安くなる。州のレジデントは安かった。僕たちが払ったのは確か140ドルじゃなかったかなと思うけど。
菅森 1セメスター。
若松 セメスターごとだったから。
菅森 そうだったよね。
太田 110ドル。
菅森 110ドルぐらい。4回でしょう。だから、年間で400〜500ドルというと、それは留学生のチューイションだからね。いまと比べるとずいぶん安かった。
若松 僕が行ったときは兄貴がいたから、最初はスクールボーイをしなかったけれども、その後3カ月ぐらいスクールボーイをして、そのあとは日本人学校で日本語を教えてたんですよ。第2学園といって。仏教会の関係で紹介してもらったんだけど、仏教会が日本語学校をやっていたんです。第2学園というのはなくなったと思うんですが、豊田先生はよく知っているんですよね。?ソーテールのところの日本語学園を。敏丸があそこで教えていた。
太田 トシマルのことを知っているの?
若松 知らないですよね。
豊田 ええ、でもうちの母がしばらくあそこの園長をやったんですよ。
若松 おかげさまであれで学費の全部、しかもラスベガスに行って遊ぶお金までも出たものね。あとはインペリアルガーデン、夏休みにね。
赤羽 それでは、中部会長と佐治会長についてもちょっと。
荒井 中部さんとはいろいろなことで親しくなって、ご案内のとおり、最期は残念な亡くなり方でしたが。
太田 そうなんだけど、あの人はあの時点で大洋漁業のサラリーマンだったんだよ。サラリーマンでも同窓会の会長職ができるということをやってみようかということで、あの人は受けたんだよね。
荒井 それもあったね。それから、マルハの中部一族だから。
太田 いわゆるサラリーマンではない面があったと思うけど。
荒井 そうそう。この人はカミソリ頭でね。慶応の経済を出て、非常に頭のいい人でした。いろいろあって……。
赤羽 佐治会長は?
荒井 佐治さんは、大阪の英語のあれをやっている小谷さんといろいろ相談していたら、佐治君がいいんじゃないか。大阪府だったかな、お父さんが商工会議所の会頭をやっていて、彼が広報の委員をやっていた。息子さんが副社長でいるけれども、おれの後輩だ。彼を育ててみたらいいんじゃないかということを、小谷さんと僕とゴルフをやっているときに話をして、それで佐治さんにアプローチしたんですよ。
赤羽 その当時、菅森さんが副会長ですか。
菅森 佐治さんのときに会長代行というのができたんですよ。
太田 あのときにできた制度なんです。
赤羽 私はそのころからチョイチョイ出させていただいたので、菅森さんがよく代行でやっておられたのを覚えています。
菅森 そのころ副会長制度ができたんです。
堤 一つ大事なポイントは、会長もすごく大事なポジションだったとは思うのですが、さっきみんなが言ったような話で、ロスにいたときに、年齢とか出たところは別にして、みんながいろいろな意味で情報交換したり助け合ったりして、何年かダブりながら生活して、非常にネットワークが強くなっていたわけです。その人たちが戻ってきて、かなり長い間いろいろな形で違った会長職のなかで、必ずそういう人たちが要所要所に入って、コンティニュイティーをずっとつくった。人間関係が非常に強かったというのが、あのときにできた会が続いただけではなくて、発展してきた一番大きな理由ではないか。
それはある意味では同窓会の特色でもあって、だんだんグラデュエートで、勉強だけする人だけでなってしまうと性格が変わるじゃないですか。何も勉強をするのは学位だけではない。いろいろなものを勉強するわけです。同窓会の精神は、あそこで学んだ、遊んだ、そういうすべてのものを共有するというのが精神で、いまだにそうだと思いますが、そのへんはやはり大切だと思います。
荒井 それはいいポイントだと思います。やはり、コンティニュイティーは非常に難しいときもあるし、大事なことです。ここの5人はだいたいそうだと思うけれども、7代の会長のうち佐治さんだけは年代が違うから一緒ではないんですが、堤さんでしょう、袖井さん、中部さん、林さん、村井さん、みんな友達なんです。非常に親しい友達なんです。だから、キャビネットをつくるときにどうしてもかかわるんです。
堤 サポートして。
荒井 表はそういう偉い人にやってもらって、こっちは下働きをやる。
赤羽 実は、私が林会長の下で事務局を引き受けたときに、益子さんから声をかけられたんです。あの当時ゴルフを教えてもらっていた関係があって、いつも車の運転をやっていましたので逃げられないんです。(笑)車の運転をしながら、「おい、やれ」と言われて、逃げられなくなって、よくわからないなりに、最初は「いやあ、勘弁してくださいよ」みたいな話をやっていたんですけれども、副会長職を5人ぐらい用意するから、とにかく引き受けろという話があったんです。私もUCLAではいろいろ助けられたので、少しでもお返しできればと思って、それではやってみましょうかみたいな話で始まったんです。
実は、そのときにラトリッジさんがアジアオフィスを開かれて、私自身はたいへん心配していたことがあるんです。そのとき中心になって動いておられた設立時のメンバーの方たちが第一線を退かれるというか、ちょっと引かれたんです。それで、私は一瞬、あれっと思って、これは弱ったなという気があったんです。それで、何とか動かないといけないなというので、年4回集まることを半分強引に私が決めてしまったところがあるんです。それで、林会長にお願いして、とにかく年何回か集まって顔を合わせましょうということで、荒井さん、太田さん、皆さんにファンクション・コミッティーなり何なりに入っていただいて、その人たちが顔を合わせることで、先ほど言われたコンティニュイティーを何とか……。
堤 それは大事ですよ。
赤羽 私自身は一瞬、これはどうなってしまうのかなとたいへん心配したのですが。荒井 いま思うのは、確かあなたに事務局長をお願いしましたね。セクレタリー・ゼネラル、事務局長というポストは最初からありましたっけ?
菅森 事務局長はあった。
荒井 あったかな。そうすると、記憶に残る事務局長では、赤羽さんが一番よくやってくれたと思います。ものすごくよくやってくれた。赤羽さんの事務局長は非常に働いていただいたと思います。
菅森 ちょうど世代交代のつなぎだから。
太田 益子君と臣夫があそこでポンと引いてしまったから、とてもやりにくい面があったんだな。
赤羽 一瞬心配したんですね。
菅森 そういった面では、これからのUCLAの会の運営もコンティニュイティーをどうやってつくっていくかということはこれからの課題になるのではないかな。われわれのときは学生のときから一緒だから。でも、これからはどんなふうになっていくのか。
赤羽 このへんから残り時間15分ぐらいかけて、皆さんにせっかくつくっていただいた同窓会がここまできて、特にここのところホームページ委員会が活発で、ホームページの記事をいろいろ更新してくれています。見ていただければいろいろなイベント情報等載っています。今後、どんなふうにしていくのが理想かという話を最後に、皆さんの夢というか、同窓会はどうあってほしいか。いまのコンティニュイティーは最低限。
菅森 コンティニュイティーを続けていく方法として、われわれの時代は日ごろのおつきあいとか経験を一緒にするとか、キャンパスにいたとか、帰ってきてから一緒だったということでコンティニュイティーを続けてきたのですが、これから新しい人がどういう形でコンティニュイティーをつくっていくか。さっき赤羽さんがおっしゃったとおり、ホームページをつくって情報を発信していく。それがコンティニュイティーの基礎になっていくのか。そのへんの運営は非常に難しいし、大切ではないかな。人間の結びつきでいくのか、情報をどんどん流してそれで引っ張っていくのか。そういうのはどうですかね。
荒井 非常にいいポイントだと思います。やはり、バランスというか、ミックスするというか、情報はエレクトリック的に流れるけれども、こういう同窓会というのはヒューマンな部分というか、ぬくもりを感じるようなボディーでもあると思うんです。
そういう意味で、コンティニュイティーは、一つは事務局長という赤羽さんがやられたようなワーキングレベルが要なんですね。会長やシャッポはそれぞれに役割はあるけれども、事務局長のような人に非常に熱心に動いてもらえる。ここが扇の要みたいなポジションなんです。この世代交代がうまくいくようにして、そこをベースにつないでいく。情報発信はホームページでできるけれども、集まるときに、セミナーでもいいし、いろいろなイベントをやりながら、フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションをしていく。それが同窓会のあり方ではないかと思います。
若松 それからもう一つ、われわれのときには物理的にできなかったけれども、UCLA本校との関係をどういうふうにしていくのか。そのときはあまり考えていなかったけれども、いまのように大きくなってくると、UCLA本校も考えるだろうし、こちらもちゃんとやっておかないと、すれ違いが起こるとだめだと思いますね。あくまでもUCLAの日本同窓会だとすれば、UCLA本校とはいつも友好につながっていなければいけない。それでいて会員の横のつながりももっともっと細かくしていかなければいけない。その両方ができなくてはいけない。
事務局長はみんなボランティアでやっているとものすごく忙しい。そこで、ファンクションをどういうふうに活発にできるようにしてあげるか。外からそういう人を持ってきて専従にするのか、なかでボランティアの人がやるのか。いま大藪さんだけれども、大藪さんも今度はカリフォルニア州の代表になっているからますます忙しくなって、それを求めてもかわいそうになってしまう。やっぱりよくやる人が事務局長になるんだよね。そこのところがすごく難しい。
荒井 世代を若くしていこうとすると、その人は現職だし、仕事が忙しいということはあるよね。赤羽さんは自分でやっておられたということもあるけれども、若いほど現役だからどうしても忙しい。そこをどうサポートするかということをしないと、事務局長に任せおけということにはならないでしょうね。そういう意味では、サブコミッティーをうまくつくって、そこにはめていくというような運営の仕方、組織的に動くということをしていかないとだめだろうと思います。
堤 いま何人ぐらいいますか。
赤羽 いま名簿上は1200〜1300ぐらいで、実際のアクティブメンバーは毎年パーティーをやるとだいたい120〜130名前後です。
堤 そうすると、それ自体は昔からあまり変わっていないですね。そうすると、1000人単位の会をアクティブにする仕組み、ホームページは一つのいい方法だと思います。あとはいま荒井さんがおっしゃったようにサブグループをどうつくっていくか。僕は個人的に佐治さんのときにハワイでアジアのあれをやったと思うんですけれども、やはりUCLAの日本同窓会の位置づけをどこに置くか。もちろん、日本の卒業生や関係者の集まりなんだけれども、それを通じてもう少しアジアとの交流とか、アジアパシフィックの交流をやっていくと、同窓会の意義がぐっと増えるような気がします。
赤羽 きょうのホームページでアメリカのほうからメールが入っていましたね。ホームページを利用して海外と情報交換をしたほうがいいという話はたぶん出てくる。一番簡単にできることですからね。
太田 いま猶二さんが言ったことはすごく大事なことです。さっきの話に戻るようだけれども、去年もUCLA日本同窓会のゴルフ会があったじゃないですか。一緒に回った人がまだ30半ばのバリバリの若手。臣夫は覚えていると思うけれども、あのころはああだよ、こうだよ、ケネディの暗殺事件があって、アメリカ人はああだったよ、こうだったよ。そんな話をすると、そんな歴史的なころにいたんですかとえらく感激というか、いい受け取り方をしてくれているわけです。臣夫さんとおれのことだからいい加減なことばかり言っているんだけれども、そういう歴史があったんですか。
もしかするときょうの話のいくつかが参考になるかもしれないし、ならないかもしれないけれども、そういう意味で個人的に話ができるということはとてもいいことだよね。人間同士だから、そういうプライベートのつながりができあがるというのがまず基本にあるだろうと思う。その上でなおかつ猶二さんが言ってくれたアジアパシフィックとのつながりも、同窓会という形で考えた場合にとても大事なポイントだろうと思います。幸か不幸か、もうリタイア、それでいて元気という人がいるじゃない。こういう人をもっと……。
堤 もっとアドバイザーにしてね。それはいいことですね。
太田 それでアジアパシフィックのミーティングなどもさっと行く。そういうことができたらすばらしい。
荒井 いま太田さんや堤さんが言ったことも含めて、要は魅力なんですよ。同窓会というのは魅力ある集まりなのかどうか。では、魅力とは何だということだよね。利益的なことというよりも、人間のつながりというか絆というか、同窓ですから、共通しているのは同じ大学に学んだということだから、その絆がある。
そして、利益というか、セミナーに行って勉強になるとか、いま太田さんが言ったように、確かに総会で若い人と話をするとき、私の時代の話をすると、非常に興味を持つんですよ。ケネディとニクソンがテレビディベートをやったんですか、キューバ戦争があったんですか。確かに歴史的な話ですよね。しかし、非常に興味を持って聞くんですね。先輩と後輩が話し合うそういう場というのはこっちもうれしいです。若い人と話すのはね。それから、若い人たちから見たらいいおじいさんだと思うだけど、彼らにとってもとてもいいのではないでしょうか。そういう魅力のあるプログラムをどう持つか。それから、場に集まってフェイス・トゥ・フェイスのコンタクトがあるとか、ホームページでいろいろな情報が流れるとか、いろいろな魅力をどれだけ増せるかということが、同窓会に入りたいなというモチベーションになるわけですね。
堤 魅力というのはいい言葉だね。あまり利害になるといやだけど。
菅森 同窓会というのは日本でもあるし、世界中であるけれども、同窓会そのものがどんなふうになっていくのかと考えたときに、何かの本で読んだのだけれども、NPOをつくって活躍していくという方法もあるんですね。だから、世界的な位置づけもあるけれども、どんな運営方法、いま言ったようなコンティニュイティーで集まるというのではなくて、組織をつくって、むしろどんどん収益をあげていくことだってできるのだから、そういうところまでいけば、金がもうかるぞというのは魅力の一つじゃないかな。
赤羽 林会長と役員会でよく話をしたのですが、どこかに基地みたいな、あそこに行くとUCLAの同窓会のメンバーがだれかいるぞ、必ずだれかと会えるぞみたいな場所が決められるといいなという話をしていたんです。
太田 帝国ホテルで三田会があるじゃない。そういうことをイメージしておっしゃっているだろうと思うんだけど、それはなかなか難しいよね。
若松 維持する費用もね。
太田 あれだけ大きな団体だからそういうこともできる。
荒井 固定的な費用でわれわれが持つのではなくて、確かにあのときそういう話があって、サントリーの赤坂のレストランの下に会員組織のクラブがあるんです。あそこにしようかとだれかが言ったんですよ。いつ行ってもだれかがいるみたいな、そういうふうにしたらどうかという話があったんですよ。
太田 クラブもいいよね。できることならすごくいい。
荒井 それはコマーシャルベースだから、自分でお金を払って自分で楽しむわけです。ただ、あそこに行くとUCLAの仲間がいるよということですね。
赤羽 だれかわれわれの先輩なり後輩なり、小さなレストランをやっているとか喫茶店をやっているとか。
荒井 サントリーは佐治さんが会長をやっていたんだから話をつけて、もし何だったらちょっと優遇していただけるような……。
堤 会員ですから。
若松 六本木の地下にメンバーシップがあって、メンバーシップを佐治さんが全部払ってくれてやったことがあるんです。そこにいつも集まってね。
太田 六本木のなんと言ったかな。瀬里奈の近くの、おれなんかも入ったもの。何回か行ったことがある。
赤羽 サーティスリーの。
太田 ああ、そうそう。
赤羽 サントリーの関係なんですか。
荒井 決めて、ホームページでアナウンスしていけば、行ってみようという気になったり、それこそ楽しい場になるんじゃないですか。これは非常にいいアイデアだと思いますよ。
赤羽 そういうことも今後見つけていってということかなと思います。そろそろ時間がなくなってきましたけれども……。
菅森 あとちょっと付け加えたいのは、同窓会というとどうしても東京だけになってしまうので、地方とのつながりをどういうふうにつくっていくかというのも一つの大きな課題じゃないかな。
赤羽 まえ佐治さんにやっていただいた京都の……。
菅森 あれは楽しかったね。先斗町でね。みんな出掛けていったからね。
赤羽 先輩について行くと、そういうおもしろい経験ができるなという。
菅森 やはり、地方とのつながりとかやり方も考えてほしいですね。
赤羽 地方会員とのコンタクトをどうやってとるかというのは昔からの課題ですね。それが発端でホームページをつくろうという話になったんです。
堤 そういうことがやりやすいんじゃないですかね。
松代 去年、中村副会長が中心になって大阪でやられた。
赤羽 あのときは東京から行くメンバーが少なくて。
太田 それもあるけれども、向こうが引いてしまったんじゃないの。ゴルフ会でしょう。
荒井 中村さんに、僕も行けないと電話したときに、少ないから引いたんだと。
赤羽 その前の先斗町のときは東京から3組ぐらい行ったんですね。
菅森 とにかく昔は九州まで行ったんだから。
太田 そうだよ。
菅森 みんなでゴルフ大会。
太田 東京のやつも来い。大阪、名古屋の連中もみんな九州で集まって、フェニックスでゴルフ会を2日間やろうじゃないかといって、あれは20人ぐらい行ったよね。おれなんかも行ったもの。
菅森 けっこう多かったしね。
赤羽 それでは、時間が来ましたので、今日は設立の経緯と今後について話をさせていただいたのですが、今お話に出たような魅力とかコンテイニュイテイーとか地方の会員をどうするかとか、課題はいっぱいあると思うので、今後事務局を運営していかれる人たちにぜひこのホームページを見ていただいて、うまく利用して会をもっと発展させていただければと思います。今日は1時間前後と限られた時間でしたので、林会長、村井会長の話がきけませんでした。又このような機会を作りぜひお話しを聞かせていただきたいものです。又他の会員で話をしたい人たちにも集まっていただき、自由に話をしてもらうのも面白いのではないでしょうか。事務局の人に企画を立ててもらいたいと思います。
それでは今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。又何かありましたら、ご協力のほどよろしくお願いいたします。
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