UCLA日本同窓会は2005年に30周年を迎えました。
同窓会30周年にあたり、歴代会長の方々からのコメントです(2005年10月23日)
既にご案内の通り、UCLA日本同窓会は、2005年に創立30周年を迎えました。この間、以下の6名の方々が、歴代会長として同窓会活動の発展に努力・貢献されてきました。30周年を迎えるにあたって、この歴代会長の方々に、UCLA留学時代の思い出や、同窓会活動に関わる思い出、お考えなどについてコメントを寄せていただきました(お寄せいただいたコメントから随時掲載中です)。
初代会長: 堤猶二さん
第2代会長:林瑞祥さん
第3代会長:袖井林二郎さん
第4代会長:中部鉄次郎さん(ご逝去)
第5代会長:佐治信忠さん
第6代会長:林瑞祥さん
第7代会長:村井勝さん
また、この機会に、2002年に行われた、同窓会創設当時のメンバーによる座談会の様子 も合わせてご覧頂くと、われらが同窓会の歴史を感じ取っていただけるのではないかと思います。
初代会長:堤猶二さんからのご寄稿
私、堤猶二は、1960年に麻布高等学校を卒業し、ロスの大学なら留学も許すという封建的な父親の言葉に飛びつき、全く準備もなくその年の6月に日本を飛び出しました。ロスでは当時父の関係の叶シ武百貨店の出店計画が進んでおりました。
waterの発音も覚束なく苦労しましたが、9月に無事UCLAに入学出来、当時全米初のCo-EdのダイクストラHallの寮に入りました。一般教養科目の中でアメリカの歴史のリーディングアサインメントに泣かされ、必修科目のビジネスLawのインド人の先生の発音がわからなくて”F”をとってしまう恐怖は今でも思い出します。もちろん楽しかった思い出もいっぱいです。日本に持ち帰った教科書はサンタモニカの砂とサンタンローションで汚れており、ローズボールの寒さで膝をがたがたさせながら友人のマイク・ハフナーの活躍を期待しながらブルーインを応援した事、又、キャンパスポリスに夜のデートを邪魔された事などなど、正にUCLAの4年間は私の青春時代でした。
卒業と同時に父が他界し、ロスのデパートもビジネススクールの「なぜ日本のデパートの出店は失敗したか」のケーススタディになり、私も卒業後の初仕事として店の閉店、その不動産の売却の手伝いをさせられました。西武百貨店のあったウィルシャーブルバードとフェアファックスは忘れられないアメリカの街角になりました。
1960年代の同窓生は大変結束が強く、30年前、当時のYoung(学長)より日本支部の設立を依頼され、菅森、太田、中島、若松、荒井、青木氏達と皆んなで名簿を0より作成し会の規約を作り、毎年の総会と数々のファンクションを創り出しました。当時より大活躍をしてくれ、いまだに会の為に活躍している現ファンクションコミッティの委員長・若松氏、又今回の30周年記念事業委員長の荒井氏には特にその労に感謝したいと思います。
私は会長職を当時の仲間の協力でしばらくやらせてもらい、基盤が出来たところで先輩であるヒューマックスの林会長にバトンタッチしました。その後、大洋漁業の中部会長、そしてサントリーの佐治会長を経て現在は、今なお、日本のIT業界、ベンチャー起業のリーダーとして前進し続ける村井会長へと引き継がれていきました。
この30年間で日本も社会の仕組、政治、経済と大きな変革が起き、正にこれから、新しい日本に生まれ変わろうとしています。アメリカにおけるUCLAをとりまく環境にも大きな変化が起こり、その財政基盤にも問題が出ています。UCLAの同窓会もその変化に対応してこれからの会の在り方、活躍の方向を確認する時がきました。この大切な節目にカナセーラ学長を迎え、国際社会の中の日本の役割が問われる今、アジアパシフィックリーダーシップの会議が行われることは正にこの節目にふさわしいことと、思っております。
これからは特に若いメンバーの同窓会への参加とリーダーシップに、そして今後の同窓会の発展を大いに期待したいと思っています。
第3代会長:袖井林二郎さんからのご寄稿
『青春の思い出はビタースイート』
UCLAに留学していた時、よく聞かれたことがある。
“Are you an exchange student?” Exchange studentとは官費支給のフルブライト留学生など政府交換留学生をいう。
私は一介の労働留学生だったから、そういう時は、いささか憤然として、”No, I am not. I am an uninvited student!”という。私はひがんで居たのである。しかし心優しきアメリカ人は、こういってくれるのだ。”oh! You are a self-invited student!” 私は金がなかったから留学したのであって、その逆ではない。
しかし働きながら勉強しようというのは、明治以来の貧しい青年の夢であって、その大半は挫折する。かくてカリフォルニアは前途有為の青年の墓場であった。私のその一人となったかも知れない。とにかく飢え死にしない程度に働いて、大学から追い出されないよう成績をキープすることに、必死だった。青春の六年間を費やして得たものも、学問的には貧しく、ビジネス用語でいえば、費用対効果はきわめて貧しい。当時大当りのミュージカルに ”How to Succeed in Business Without Really Trying”というのがあったが、私の場合は ”How to Survive at UCLA Without Really Succeeding”とでもいうべきだったろう。
別に私は後悔していない。それこそ自分で招いたことであり、アメリカへ行っていなければ、もっとつまらない存在になっていたことだろう。やはり私は、自分に機会をあたえてくれたアメリカに感謝すべきだろうし、そのお返しに言うべきことは言わなければなるまい、と思っている。
袖井林二郎 (法政大学名誉教授・政治学博士 MA ‘65)
第5代会長:佐治信忠さんからのご寄稿
UCLA日本同窓会が創立30周年を迎えることは、誠にご同慶の至りです。
私がUCLAのアンダーソンスクールを卒業したのが、1971年、既に30年以上の歳月が過ぎました。今でも当時の友人から電話やメールが入ったり、来日の際に食事を一緒にしたり、旧交を温めています。青春の一時期の大切な時間を、アメリカという国で勉強し又楽しく過ごすことが出来たことを大変有意義に感じています。
1990年から94年まで、本同窓会の会長のお役目を頂戴し、少なからず本会の発展、充実に貢献出来たと思っていますが、さらに、UCLAで学んだ多くの人たちの輪を広げていくためにも、この会の役割には大きなものがあり、今後も積極的な活動をめざしたいものです。
相変わらず仕事に忙しい毎日を送っていますが、グローバル化の波がますます高まっている今日、UCLAで学んだ事が大いに役立っています。全米第三位のペプシ系清涼飲料会社の買収やアジア・オセアニアの食品会社の経営、中国でのビール・清涼飲料事業の展開など、海外での企業活動に益々力を入れていきたいと考えています。
この会に集う皆さんが、UCLAで学び培ってきた知識やアイデアをどんどん発言・発信して、日本をよりグローバル感覚に富んだ国にしていくことが必要であり、特に若い会員の皆様の活躍に期待したいと思っております。
佐治信忠(サントリー株式会社 取締役会長兼社長)
第7代会長:村井勝さんからのご寄稿
私は1960年から62年までの2年間をUCLAアンダーソンスクールで学びました。留学直前の英語によるディベートコンテストで、「コンピュータは、将来社会的インパクトを与えるか」と言うテーマで討論しました。実はその頃、コンピュータを見たこともなく、書物をひも解きながらコンピュータとはどんなものか勉強したものです。1960年6月にロスアンジェルスに船で上陸し、UCLAのキャンパスにあるウェスタン・データセンターで初めて大型コンピュータを見たときの感激を今も忘れません。それから45年、コンピュータが与えた社会的インパクトは想像をはるかに超えるものとなりました。
帰国して、父の仕事を受け継ぐことになっていた私は、その後40年間ずっとコンピュータ業界に身をおくことになりました。IT業界の変遷は、そのまま社会の変遷でもあります。林瑞祥さん、天野松吉さん、科野松蔵さん、安西直之さん、中部さんなどと毎週土曜日に図書館で勉強会を開いたのも良い想い出です。