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 UCLA留学体験  −横内陽子さんからの寄稿−

横内陽子
1997年UCLA学部卒 文化人類学専攻 コロンビア大学国際行政大学院にて修士号取得後、日本財団国際協力グループにてアジアの障害者支援事業を担当

■どうしてUCLAを選んだか
大学時代、私は文化人類学を選考していたのですが、これを学ぶために最適な環境を提供していたのがUCLAだったからです。   UCLAにて
私は高校卒業後、両親とともにサンフランシスコに渡りました。日本に残る選択肢も考えたのですが、当時から民俗学や文化人類学といった分野に興味を持っており、人種のるつぼと言われたカリフォルニアならば実践的なことが学べるだろうと、渡米を選択した次第です。サンフランシスコのコミュニティ・カレッジで良い人類学の教授と巡りあい、更に深く学ぶことのできそうな場所を探したところ、UCLAにたどりつきました。
また、同じコミュニティ・カレッジ内の先輩が多くUCLAに入っており一度見学に訪れたことがあるのですが、オープン・マインドで自由でありながら愛校心は強く、よく遊ぶけれどもよく学び、多様性を原動力にしている大学の空気に魅力を感じたからでもあります。

■UCLAでの勉強と生活はどうだったか
忙しかったですね。毎日、勉強漬けでした。秋の新学期から編入しましたが、早く大学に慣れようとサマースクールから授業を取りはじめました。が、いくら読んでも教科書の中身が理解できない。読んでも読んでも追いつかないし、テストではD評価。コミュニティ・カレッジでは、頑張れば頑張っただけ良い成績をいただけて、「やれば何でもできる」と自信を持っていた頃だったので、これはショックでした。最終成績はやはりD。親に電話をしたのを覚えています。「もしかしたら卒業できないかもしれない。そのときはごめんなさい。」すごく泣きましたね。
鼻っ柱をへし折られてのスタートでしたが、生活は刺激的で毎日が楽しいことの連続でした。少し大学に慣れた頃から海外留学生のお世話をするボランティアを始めて、たくさんの留学生友達ができました。金曜日の夜は麻雀パーティー(私は下手だったので見ていただけですが)、土曜日はそのまま中華街まで車を走らせ、飲茶を食べて解散する、というのがお決まりのコースで。日曜日にはビーチバレーがあったので、勉強の隙を見てよく行きましたね。麻雀やバレーより、友達と会っておしゃべりするのが楽しかったんですね。一方で、他の時間はすべて授業と予習、復習、図書館や友達のラボでの自習に使っていました。夜中に、友達と吉野家まで牛丼を食べに行って、帰ってからまた頑張る、という感じでした。
でも、どんなに勉強が忙しくても、自分の意思でチャレンジすることができて、それをフェアに評価してもられる、というUCLAの文化を本当に愛していました。生きる手ごたえを毎日感じていましたね。それが、今も色々な場面で自分を助けてくれているなあと感じます。

■思い出
待ちに待った週末の夜に開催していた海外留学生同士の麻雀パーティー(繰り返しますが、私麻雀はできないので見てただけです!)、そしてビーチバレーが一番楽しかった思い出です。コア・メンバーが5人ほどいて、よくつるんでいたのですが、彼らが心の支えでしたねー。とにかく勉強では、いつ振り落とされるかと緊張の毎日でしたから。 出張先のネパールで、村の子供たちと
みんな背景となる文化が違うので、一緒に遊んでいても誤解や勘違いはしょっちゅうでした。タイ人の友達何人かに遊びに行こうと誘われて、テスト前なので昼食だけ一緒にと言ったら、二つ返事で「OK!」。食事が終わり、アパートに帰れたのが16時過ぎですよ。昼食だけで何故そんなに時間がかかったのか?謎です。別の日、中国人の友達にショッピングに誘われて出向くと、誘われた人々だけがいて本人はいない。やっと連絡をつけてみれば、気が変わったからみんなで行ってきて、と言われて急遽私が仕切ることに なったり、そんなことばかり(笑)。
でも、彼らと遊んだお陰で英語力が飛躍的に伸びて、留学5年目には日系人かと思ったと言われるくらい英語が上手になりました(笑)。今は、完全に退化してしまいましたけど。

■UCLAを卒業して今の自分について
そんなこんな珍道中の留学生活を終えて今の自分を振り返ると、だいぶ柔軟性が身についたな、と思います。よく言えば、ちょっとやそっとのことでは驚かなくなりました。悪く言えば、何でもなんとかなると思ってしまう癖がついてしまったと思います(笑)。これが、けっこう仕事に影響するんですね。私は国際 協力の仕事をしており、途上国によく出張に行くのですが、向こうの常識は日本とは大きく違う。でも、私はそんなもんだと思ってしまうので、向こうがいきなりプログラムを変更してきても、こっちが軌道修正すればいいじゃない、時間が極端に遅れてしまっても、ゆっくり待てばいいじゃない、と、こうなるんですね。
ひとりだとそれでいいのですが、メディアや有識者など、多くの外部者を連れているとそういうわけにはいきません。どれだけ日本並みに時間に正確に、問題なく諸事プログラムを進められるか。トラブルがあったとき、どう効率的に対処し、全方面に気を配りつつ上手に説明できるか。これが大切な能力になってきます 。このへんの、日本流「幹事力」というか、内部調整力が未だに身につかず、よく落ち込んでいます。

一方で、留学による良い影響もありました。日本ではなんでも一つの方向を向く傾向が強いですね。しかし、私は「今はこの方法を選択するが、世の中には別のやり方もたくさんある」という意識を常に持っています。このアンテナは、意外と役に立ちます。見落としがちなことに気づけるようになり、物事に対する 洞察力が高められます。私は上層部のスピーチ作成の仕事もしているのですが、発想や視点がユニークだと言われます(唯一誉められる部分です)。これも、UCLA時代の遺産だと思います。 出張先のインドで。ハンセン病村の人々のリキシャ・サービスを体験
しかし、何より今の自分にプラスとなっているのは、多様性を原動力だと考えられるようになったことにあると思います。今どき当たり前のようですが、それを心から知っている人は少ない。例えば外国人が日本で犯罪を犯したとき、会社で障害者や外国人と日本人の健常者の間でコミュニケーション・エラーが発生 したとき、それでも多様性には意味があると自信をもって言える人は少ないと思います。しかし、UCLAとカリフォルニア社会で多様性の持つ力を目の当たりにしたお陰で、私は様々な問題を含みながらも、それが大きな原動力になりうることを身体で学ぶことができました。それは色々な場面で私を助けてくれます。

「KY(空気読めない)」というのは本当に日本ならではの表現で、若者の間でこんな言葉が定着することに私などはひどい抵抗を感じているのですが、現場の空気を乱さず、その場に沿った発言ができることのほうが自分の意見を述べる勇気を持つことよりも意味がある、というのはおかしい。KY発言を排斥するコミュニ ティは、現状の枠を超えたものを創造することができないので、衰退するしかない。それより、突拍子のない意見でも言いやすい環境を作ったほうが、確実に自分や社会の役に立つというのが私の信条です。自分で気づき、吸収できることなんて微々たるものなので、できるだけ自分が思いつかないような意見を人に言わせて、そこ から学んだほうがいい。効率や正確さはとっても大切なものですが、それを多少犠牲にしてでも、ぐるぐるといろんな意見が回る環境を自分の周りに多く形成したほうが、長い目で見て財産になると思います。

長くなりましたが、UCLAでの留学生活は、私が人生で手に入れたもののなかで最も価値あるもののひとつです。長く仕事をしていると狭い世界で悶々と悩んでしまうこともありますが、その度に初心に帰ろうと思い、記憶のなかで訪れる場所が、あのキャンパスだと思います。

 

 

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